医療ツーリズムは、海外から患者が医療を受けるために他国を訪れることを指し、近年その市場規模が急速に拡大しています。高度な医療技術を有し、観光資源が豊富な日本も、この分野での成長が期待されています。
本記事では、医療ツーリズムの歴史、現状、成功要素、そして今後の課題と展望について解説します。
医療ツーリズムの歴史と経緯
日本で医療ツーリズムが注目されるようになったのは2000年代後半からです。特に2009年に民主党政権が掲げた「新成長戦略」の中で、医療ツーリズムが経済成長を支える一つの柱として位置づけられたことがきっかけでした。この戦略では、「高度な医療技術を活用し、外国人患者を積極的に受け入れることで経済効果を生む」といった目標が掲げられました。
2010年には内閣官房に「医療イノベーション推進室」が設置され、外国人患者受け入れのための制度整備やプロモーション活動が本格化しました。同年、観光庁も「観光立国推進基本計画」の中で医療ツーリズムを取り上げ、日本全国で関連プロジェクトがスタートしました。
政府による取り組みと進展
政府は医療ツーリズム推進に向けた具体的な施策として以下を実施しました:
- 医療滞在ビザの創設:外国人患者が日本で治療を受けるために必要なビザ制度を整備しました。このビザにより、最長1年間の滞在が可能となり、同伴者も含めて最大2回まで更新できるようになりました。
- 認定仲介業者制度: 2013年に厚生労働省が「医療滞在ビザ身元保証機関登録制度」を創設し、登録された機関が外国人患者の身元保証を行えるようになりました。
- 国際的なプロモーション活動:日本政府観光局(JNTO)やJETRO(日本貿易振興機構)が中心となり、日本の医療技術やサービスを海外市場にアピールしました。例えば、2013年には「Medical Excellence JAPAN」というプラットフォームが設立され、日本の医療の国際展開を支援しています。
現在の状況と成功要素
市場規模と需要
日本政策投資銀行(DBJ)の試算によれば、日本の医療ツーリズム市場は2020年時点で約5,500億円規模になる可能性があるとされていました。実際には新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で一時的に停滞しましたが、2023年以降は回復基調にあります。
最新の予測によると、日本の医療ツーリズム市場は2024年に約49億ドル(約7,350億円)規模に達し、2029年までには132.5億ドル(約1兆9,875億円)にまで成長すると見込まれています。これは年平均成長率(CAGR)22%という急速な拡大を意味しています。
世界全体では2022年時点で約14兆円規模だった市場が、2028年には約48兆円に達するとの予測もあり、日本もこの成長市場で競争力を高める必要があります。
日本の強み
日本が医療ツーリズム市場で注目される理由は以下の通りです:
1. 高度な医療技術:特に癌治療や再生医療、ロボット手術など最先端分野で世界的な評価を得ています。例えば、日本の5年相対生存率は多くのがん種で世界トップクラスであり、胃がんでは71.5%、大腸がんでは71.1%という高い数値を示しています。
2. 迅速な診断・治療:他国では数か月待ちとなるような精密検査や手術も、日本では比較的短期間で受けられることが魅力です。例えば、CTスキャンの普及率は人口100万人あたり111.49台と、OECD諸国の中でも最高水準です。
3. 安全性と信頼性:感染症対策や衛生管理が徹底されており、安全性への信頼感があります。日本の医療関連感染率は約5%と、世界平均の10%を大きく下回っています。
4. おもてなし文化:患者一人ひとりへの丁寧な対応やホスピタリティ精神は外国人患者にも高く評価されています。
5. 観光資源との連携:温泉地や伝統文化体験など、治療後のリラクゼーションや観光体験も提供可能です。日本には3,000以上の温泉地があり、これらを医療ツーリズムと組み合わせることで独自の価値を提供できます。
今後の課題と展望
課題
日本が医療ツーリズムを推進し、今後この分野を成長させて外国人渡航者から選ばれる国となるためには、現状で以下のような課題があると考えられます。
1. 言語対応
外国語対応スタッフや通訳者不足は依然として大きな課題です。特に英語だけでなく、中国語やアラビア語など多言語対応が求められています。厚生労働省の調査によると、2019年時点で外国人患者の受入れ実績がある病院のうち、通訳体制が「整備されている」と回答したのは約30%にとどまっています。
2. コスト競争力
日本は他国(例えばタイやインド)と比較して治療費用が高額になる傾向があります。例えば、心臓バイパス手術の費用は日本では約300万円ですが、タイでは約100万円程度です。このため、高付加価値サービスによる医療技術やサービスの差別化戦略が求められます。
3. 国内患者とのバランス
外国人患者受け入れ拡大によって国内患者への影響(待ち時間増加など)が懸念されます。国内の患者受け入れ体制に影響を及ぼさずに、医療ツーリズムの推進ができるよう両者をバランスよく対応する体制構築が重要です。
展望
さらに、今後日本が医療ツーリズムを成長させるにあたっての新たな展望として以下が考えられます。
1. デジタル技術活用
オンライン診療やAI診断技術など、新しいデジタル技術を活用することで効率的かつ質の高いサービス提供が可能になります。例えば、AIを活用した画像診断支援システムの導入により、診断精度の向上と効率化が期待されています。
2. 地域連携モデルの推進
地方自治体との連携によって地域資源(温泉地や自然環境)を活用したプログラム開発は、日本独自の魅力としてさらなる発展可能性があります。例えば、大分県別府市では、温泉療養と先進医療を組み合わせた「温泉医療ツーリズム」を推進しています。
3. 国際認証取得
JCI(Joint Commission International)など国際的な認証取得によって、日本の医療機関への信頼性向上につながります。2024年時点で、日本ではJCI認証を取得した医療機関は26施設あり、今後さらに増加が見込まれています。
4. 教育と人材育成
医師だけでなくコーディネーターや通訳者など、多職種連携による包括的なサービス提供体制構築が求められます。厚生労働省は「医療通訳育成カリキュラム」を策定し、質の高い医療通訳者の育成を推進しています。
成長予測と注目分野
日本の医療ツーリズム市場は、2024年から2029年にかけて年平均成長率(CAGR)22%で成長すると予想されています。この成長を支える要因として、以下が挙げられます:
1. 高度な医療技術の提供:日本の医療技術、特にがん治療や再生医療分野での強みが、海外からの需要を引き付けています。
2. 疾病の高い有病率:日本国内での主要疾患の高い有病率が、先進的な治療オプションへの需要を高めています。2023年時点で日本のがん症例数は約103.3万件に上り、これらの患者に対する高度な治療法の開発が進んでいます。
3. 政府の取り組み:2022年2月には「ウェルネス」施設を通じて観光客を誘致する新たな取り組みが開始されるなど、政府主導の施策が市場成長を後押ししています。
4. 民間セクターの参入:日本の病院の約70%が民間経営であり、これらの病院が先進的な医療サービスを提供しています。民間病院の積極的な参入が市場拡大に寄与しています。
まとめ
日本は高度な医療技術、安全性、おもてなし文化という強みを生かしつつ、課題解決に向けた取り組みを強化することで、世界的な競争力を持つ医療ツーリズム拠点となる可能性があります。特に言語対応や法制度整備、多職種連携による受入れ体制構築は急務です。
2024年に約7,350億円、2029年には約1兆9,875億円という市場規模の予測は、日本の医療ツーリズム市場の大きな成長ポテンシャルを示しています。この成長を実現するためには、デジタル技術の活用、地域資源との連携、国際認証の取得、そして専門人材の育成が重要な鍵となります。
また、地方創生との連携やデジタル技術活用など、新しい視点からアプローチすることで、日本独自の価値を提供し続けることができます。高齢化社会における神経学分野の需要増加や、がん治療における高い生存率など、日本の医療の強みを活かした特色あるサービス提供が求められます。
これからも多くの外国人患者に選ばれる国として、医療機関、政府、地方自治体、そして民間企業が一体となって取り組みを進めていくことが重要です。日本の医療ツーリズムは、単なる経済効果だけでなく、日本の医療技術や文化を世界に発信する絶好の機会でもあります。この成長産業の発展が、日本の医療の質のさらなる向上と、国際的な地位の確立につながることが期待されます。
<参考>
1) 厚生労働省. (2020). 令和元年度 医療機関における外国人患者の受入れに係る実態調査結果報告書. https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000662252.pdf
2) 国立がん研究センター. (2023). 最新がん統計. https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/summary.html
3) 経済産業省. (2022). 医療国際展開カントリーレポート. https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/
4) 杉山明枝. (2017). 日本における「医療ツーリズム」の現状と課題. 大妻女子大学紀要―社会情報系― 社会情報学研究, 26.
5) メディフォン. (2024). 医療ツーリズムの市場規模|世界・日本で注目を集める理由を解説. Retrieved from
https://mediphone.jp/mediphoneblog/medical_tourism_marketsize/
6) 日本政策投資銀行産業調査部. (2010). 医療ツーリズムの潜在需要に関する調査.
7) 観光庁. (2019). 「外国人観光客の医療等の実態調査」の結果 及び観光庁の主な取組. Retrieved from https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/kokusaitenkai/gaikokujin_wg_dai3/pdf/siryou3.pdf